22年3月中旬から続く、作家のやんツーと水戸部七絵によるARTIST’ STUDIO第三期レジデンスでは、一貫して現代の社会情勢の中で露わになったアーティストという立場の役割や意義との向き合い方がテーマになっていたと言える。世界的な災いが重なり合うように社会に大きな影響を与えた歴史的にも稀有な時期に、「How to turn capital into garbage(いかに資本をゴミに変えるか)」というテーマを掲げた本レジデンスは、美術の資本性を逆説的に問うことで、現代美術の社会的意義に向き合うことが一つの狙いであった。結果として、コンセプト・メイキングの段階から現代美術を語る上で避けられない資本としての性質に歯向かった本テーマは、同時に、昨今の情勢の中での表現活動の市場価値と社会価値の乖離や、作家業を生業にするアティチュードをも内包するものであったことは留意しておきたい。
一方で、様々なコンセプトがレジデンス中に(油絵の具のように)重ねられていく空間の多層性は、それらさえも一つの資本主義の在り方であるという理解のレイヤーを露見させる装置にもなるのであった。デュシャンが100年以上前にどんなものも(ひいてはゴミさえも)美術になりうることを示し、フルクサスやポップアートを始めとする60年代からの米国の前衛芸術によりアートの公共性も度々美術史の物語に吸収され、いつしか「美術」がゴミにとどまらずあらゆるモノに資本性を付与させる力をもつようになったことも今の我々にとっては至極当然な命題でもある。現に、公開制作というパブリックに向けた本レジデンスの所作そのものが一つのパフォーマティブな「作品」として成立し、それさえも「社会彫刻」を提言したかのヨセフ・ボイスのデビュー作「How to Explain Pictures to a Dead Hare」(1965)を踏襲しているとも言える。
この美術のバッドトリップのような話は、やんツーと水戸部七絵が本レジデンスでこのテーマを扱う覚悟の重さをも意味している。本レジデンスの成果展に位置する本展「Can we turn capital into garbage?(資本をゴミに変えることはできるのか?)」は、二人の異なる媒体やコンセプトを扱う作家が同時にこの普遍性をもつテーマと向き合った末の一つのアンサーとして、観客に問いの矛先を向ける。未来永劫転売や金銭の伴う交換を一切禁止した新作たちしか販売をしない本展は、作品と資本を交換しながら生きる現代作家として、出口のない資本性の輪廻からの解脱を試みた行為として昇華されるのではないだろうか。