開催概要
水戸部七絵|髙山陽介 顔の奥行き
出展作家:水戸部七絵、髙山陽介
会期:2019年11月8日(金), 11月9日(土), 11月10日(日)
時間:13:00〜18:00 ※初日11月8日(金)は18:00〜20:00
主催:銀座 蔦屋書店
会場
関内文庫
〒231-0013 神奈川県横浜市中区住吉町3丁目28 住吉町新井ビル 408号室
人の顔には正面がある。しかし、正面と側面、背面の厳密な定義は、たとえば解剖学や観相学(顔の形から性格や感情が読み取れるとする疑似科学)などの数値計測のためにしか必要とされない。だから、ふつうの人は「顔の正面をどう定義するか」と聞かれてもはっきり答えられない。
だが、人を正面から描く意味なら簡単に答えられる。東洋であれ西洋であれ、正面性が強調されるモティーフはたいてい神や仏、あるいはそれに類する対象だからだ。ゆえに人間が正面から描かれている場合、ふつうははなんらかの意味づけがある。たとえば、宮廷画家として清朝に仕えたイエズス会の宣教師ジュゼッペ・カスティリオーネ(郎世寧)は、乾隆帝と皇后、貴妃を正面からとらえた肖像画を描いている。皇帝の権威は神にも匹敵するという含意がそこにはある。
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美術作品の「正面」(以降、カギかっこ付きの「正面」は美術作品の「正面」を指す)という概念じたい、実のところ人工的だ。わかりやすい例は西洋で発明された透視図法である。これは絵の鑑賞位置(=正面)を決めてから描かないと空間の描写が破綻する製図法で、幾何学の応用でできている。だからルネサンス以降の西洋絵画は鑑賞者の立ち位置を一点に固定する。
もうひとつ、人々がどうしても美術作品の正面を決めなければならない理由がある。作品の記録を取るため、つまりサイズ計測と写真撮影のためである。つまり美術において、「正面」はかならずしも自明の概念ではないのだ。それは何かの意味を表示するための作画かもしれないし、技法上の理由で設定されている立ち位置かもしれないし、記録者が便宜的に決めたものかもしれない。
19世紀中ごろから20世紀中ごろにかけて、西洋のアーティストたちはこの「正面」の人工性に積極的に関与しようとした。エドゥアール・マネの《フォリー=ベルジェールのバー》やポール・セザンヌの一連の静物画は透視図法的な視覚の解体を目論んだ作例だし、メダルド・ロッソは自作の彫刻の写真を撮影し続けることで彫刻の「正面」に対する批評的アプローチを企てたフシがある。
水戸部七絵(ミトベ ナナエ)と髙山陽介(タカヤマ ヨウスケ)の作品は、現代のわたしたちが上記のような「正面」の概念を考察するうえできわめて重要な役割を果たす。今回関内文庫で展示される作品のモティーフは、すべて人の顔だ。しかも、著しく立体的な水戸部の作品は、あくまでも「正面」のある絵画であり、絵画的に彩色され、近作では背面を断ち切る例も散見される高山の作品は、あくまでもあらゆる角度から鑑賞され得る彫刻なのだという。では、彼(女)らの作品にとって「正面」はいかなる定義や意味を持つのだろうか? 関内文庫は、本展を通じて近現代の美術が持つ「正面」の批評性を鑑賞者のみなさんに問いたいと思う。
(文・松下哲也、企画・伊藤啓太)