本展覧会は”人間のイメージ”をもとに制作する画家と彫刻家の二人展です。水戸部七絵はキャンバスという支持体に大量の絵具という物質を用いて絵画を構成しています。今回展示されるのは『TIME』誌をオマージュしたシリーズです。表紙を飾る世界的著名人たちを再現しており、そこにはトランプやプーチンなどの政治家や、スポーツ選手、歌手など様々なメディアで活躍し、世間を賑わしている人々——私たちがもうすでにイメージを持ちえている人物を、水戸部は絵画として再構成しています。
根本祐杜は今回高さ3メートルにもなる巨大な人体像を展示します。『発掘された人』というタイトルの人物像は、根本の家にある庭の土を掘り、掘った跡を型取りして粘土によって成形、そのまま垂直に立たせた作品です。モチーフとなるのは水戸部とは対照的に著名人ではなく、いわば「誰でもない人」です。根本はそのような根源的な人間のイメージから作品を制作しています。
分厚く塗りたくられた『TIME』の表紙は、描かれる有名人について私たちが持っていたイメージを破壊し、新たなイメージを再構築します。一方、直立する、巨大な「誰でもない人」は、言い換えれば「誰にでもなりうる人」であり、人間以前、あるいは人間以後の人間性のイメージを引き受ける存在です。
二人の作品を併せて鑑賞することで、ある人物像が立ち上がりイメージが反復していきます。それは単純な個人でもなく、普遍的人類という概念でもありません。異なる制作手法を持つ二人の作家による「人間のイメージ」——L字のような形の特徴的な金髪をたくわえた人間一人でもなく、庭で発掘された粘土作りの巨大な人間一人でもなく、それは現代に生きる私たちの肖像であるのかもしれません。
Artist Statement
「根本くんのアトリエを訪れて」
彼を直接知ったのは昨年の冨井大裕企画「ポリフォニックなプロセス+プレッシャー」で一緒に展示をしたときだった。当時は、実際の彼と、あの「CAF賞を獲った人物」とはリンクせず、デフォルメこそされているが、どう見ても『ONE PIECE』 のルフィをセラミックにした作品が印象的だった。本人と話してみると、ユニークな作品と雰囲気とは逆に、彼は意外とアカデミックな世界に居て、博士課程の真っ只中であった。そして、彫刻と絵画の問題について、レトロスペクティブな話題について語っていた。私は、彼の面白さを別のところに感じていた。パブリックなキャラクターを題材に扱うことは著作権に関するリスクを孕むが、彼はそのモチーフを軽やかにジョークを交えながら自らの作品としてしまう。そんな作家が開く展覧会は、現在のアートマーケットに対抗するようなものとなるのではないだろうか——。そのように感じたのを覚えている。
次いで、彼のアトリエを訪問した。広い工場で、風はおうおうと鳴り響いているし、扉のキィーとゆっくり閉まる音はまさにホラー映画!『羊たちの沈黙』のワンシーンにありそうな——突然死体が現れてもおかしくないような——工場だった。そこには、大きな釜と、これまで制作してきた根本くんの新旧作があった。顔が絵付けされた壷は無造作に床に置かれていて、根本くんはそれに「土と植物を植えたい」と語った。本来、美術品に対してはありえないアイデアである。一瞬頭の中で、「ポール・クレンドラーの脳みそから植物が生えたような」グロテスクな想像をしてしまったが、顔を描き続けている私にとっては、植物と土の存在は何か救いのような存在にも感じた。私がポートレートを描くときには、滑稽さと愚かさと美しさと暴力に塗れた、一種の人間模様を主眼に置いているつもりだ。一方、自然という存在は、ときに人間にとってアレルギーや災害にもなり得るが、生命の誕生に必要不可欠なものだ。彼の思考と作品は、人間中心的な世の中において、ある種の癒しになるだろう、そう思った。
二回目に訪問したときに驚いたのは、広大な敷地、そのなかで巨大な三メートルの人型の穴にコンクリートが流し込まれたさまだった。まさにゾンビか! と、思った。しかし、更にその横たわった二体の人間(男女)は立ち上がり、土ごと展示会場に運ばれるという。
今一度彼の作品を見渡してみると、一般人、あるいは原始的な格好の人間がモチーフに多いことも面白かった。彼ら/彼女らは普段はスポットライトが当たらない一般市民にも見えた。著名人ばかりを描いてきた私としては、私の作品と彼の作品を組み合わせることで、その展示は社会を反映させた空間になるのでは、と予感した。
想像するに、トランプゲームの”大富豪の革命”じゃないけれど、私の小さな政治家達の絵画は、彼の巨大な市民には勝てないだろう。そんな結末も良いかもしれない。
水戸部七絵
「水戸部さんについて」
彫刻は、この世界に物質を伴って存在してしまう表現だと考えている。
私が水戸部さんと初めて遭遇したのは、今からちょうど一年前、武蔵野美術大学で行われた彫刻科の展示だった。首像をテーマにした展覧会で、各作家が首像を制作して同一の台座に並列に置くという内容だった。水戸部さんはその中で唯一画家として参加しており、彼女は首像たちが置かれているブースとは離れた会場で絵を壁に展示していた。水戸部さんの絵は、大量の絵の具を用いることで絵画というスクエアの画布から浮き出していて、絵の具という物質がこの現実に存在する、してしまう。この展覧会においても重量的にものすごい重さの絵を壁にかけていた。自分が面白いなと思ったのは、「彫刻」の設置の際に生じるおなじみの光景——何人もの人間が、一緒に手伝いながら設置する——を「画家」の水戸部さんが繰り広げていることにあった。何人かの学生のスタッフが、息を合わせて、せーの、と言いながら重量級の「絵」を壁に立て掛けている構図は今までみたことがないのと同時に、いつも彫刻の現場で見ている見慣れた動きでもあった。この光景を印象づけたもう一つの理由に、逆に彫刻家の面々たちは制作した首像を決められた台座に置くのみで、並び順も展覧会企画者である冨井大裕さんが決めることになっており、作品のみ会場に送って作家は会場に現れず、といった割と簡単なインストールとなっていたことも要因としてあったように思う。私は会場にて調整が必要な作品だったために現地に向かったのだが、参加する作家のほとんどは現場に来ていなかった。展示した作品はONE PIECEの主人公であるルフィを彫刻したもので、ONE PIECEの主要なテーマであると私個人が勝手に考えている「仲間」という設定を引用して、並列に並べられている世代や素材、形態異なるさまざまな首像をルフィの仲間として取り込んでしまうことをねらいとしていた。水戸部さんは著名人や実在する人間などをモチーフにして作品を展開している作家でもあるので、このルフィを面白がってくれて、著作権の問題(ONE PIECE側の人に許可を取っているか)など法的な対応の話をした。 私はかねてより遊戯王やポケモン、ロボコンなどのオリジナルとして流通するイメージをなんの許可もなく二次創作し勝手にギャラリーなどで展示していたので、著作権の問題などはそろそろ気にしなくてはいけないなというか、どうなっているのだろうという興味もあって色々教えてもらった。水戸部さんのアドバイスによりルフィをルフィとしてそのまま展示してしまうとONE PIECE゙側の人間に発見され問題になったときにややこしくなるというような話を聞いたので、 タイトルを「Pirates King」としその場は解散となった。その後水戸部さんから電話があり、この展示のお誘いをいただき、受けた訳だが、当時水戸部さんは二次創作的キャラクターや著名人の作品を美術の領域で展開することに展覧会の方向性を定めていたと思う。私もそれはそれで面白い展覧会が実現するとは思ったが、今回は新たに作りたいイメージもあったので新作を展開する方向で考えさせてもらった。ここで最初の発言に戻るのだが、彫刻は物質を伴ってこの世界に存在してしまう強いメディアである。私はイメージから制作を始め、素材や物質との格闘を始めていく対話こそ彫刻の重要な要素であり、これはある意味、制限、足かせにもなっていると考える。イメージは数秒で思いつく。が、それを実現させるとなると、ものすごい時間と労力、アクシデント、どうしようもなさと向き合い続けないと作品は完成しない。絵がいいな、と思うところの一つは、作家は絵というフレームの中において宇宙を想像できるし、物理的法則を無視したイメージをそのまま代入することができる、そのようなメディアだという点だ。しかし水戸部さんの絵はそのイメージから絵の具がこの世界に飛び出て現れてしまうので、大型の作品になると壁にかけられなかったり、通常考えられる重さじゃない絵などは平置きにしてほとんど動゙かせなくなってしまう、という独特の状況が起こってしまっている。それは四角のキャンバスに収まらないイメージから脱出した格闘の痕跡とも言えるかもしれない。水戸部さんのアトリエを見ていると絵の具との格闘の痕跡が至るところにあって格闘技場のようなイメージを印象として受けた。思考や手法、メディアなどは彫刻と絵画で違うが、この世界で表現者として格闘するあり様はきっと何かを立ち上がらせるはずである。
根本祐杜
コンセプトについて
「コンセプト」という言葉について整理しておきたい。Oxford Languagesでは「1.概念」「2.企画・広告などで全体を貫く基本的な観点・考え方」とある。1の「概念」という無骨で抽象的な使い方はなかなかお目にかからない。本稿にて扱う「コンセプト」は2であろう。日常で見かける「コンセプト」たちの多くについても同様である。そして、アーティストたちは、この2の意味において「作品のコンセプトとは?」と投げかけられ続けてきた。そして筆者自身もこの問いをアーティストたちに何度も投げかけてきた一人だ。
次いで、”Concept”をCambridge Dictionaryで調べると、”a principle or idea”とある。「原則あるいは考え」と訳せる。例文の一つに「Kleenbrite is a whole new concept in toothpaste! / クリーンブライトは、今までにない新しいコンセプトの歯磨き粉です!」とある。この一文は極めてシンプルに「コンセプト」のあり方を示している。コンセプト/Conceptは共に通底して、物事の言語的側面を指すものだ。そして、現代アートの領域が「コンセプト」が直接的に紐づけられるのは、「コンセプチュアル・アート」の勃興があったからであることは間違いない。コンセプチュアル・アートについては、沢山遼氏が簡潔かつ明快にまとめている。
アイデアやコンセプトを作品の中心的な構成要素とする動向のこと。1961年にヘンリー・フリントにより、「コンセプト・アート」という名称が初めて使用された。その概念を確定的なものにしたのは、『アートフォーラム』誌に掲載されたS・ルウィットのエッセイ「コンセプチュアル・アートに関する断章」(1967)である。「概念芸術」とも訳されるように、作品の概念や観念的側面を重視するため、言語はもっとも重要な媒体になりうるものであり、批評家のL・リパードはこの傾向を「芸術作品の非物質化」とも定義している。1
上記を踏まえて、本展の「コンセプト」について書くならば、それは展覧会においてプレイヤー間の諸関係が織りなす非物質的なものについて、あるいはその「展覧会」において二人の作家による極めて物質的といえる諸作品が生み出す関係を掘り下げることになろう。また、二人のアーティストが今ここで何を展示するのか、そして作家同士がどう作家を思い、捉え、考えているのか。つまり、本展の「コンセプト」は水戸部七絵/根本祐杜の両者によって書かれた相互についてのテキストにも記されているので併せて読んでいただきたい。
さて、本展は、水戸部による『TIME series』と根本による『発掘された人間』を主軸とする。
『TIME series』はTIME誌の表紙を模した42枚の絵画により構成される。1941年にヒトラーを表紙にしたもの、それから2022年のゼレンスキー大統領までがおおまかな時系列に沿って壁面全体を覆う。本作は雑誌の実物、あるいはネット上から収集された膨大な画像をもとに描かれている。水戸部はコロナ禍にて外部との接触をSNSに求め、海外のニュースやそのヴィジュアルのリサーチを通して本シリーズは開始されたという。
一方、根本の『発掘された人間』では、近年根本が取り組んできたセラミック(陶芸)の手法が用いられる。根本の自邸の庭に掘られた穴は人型を模しており、その型を基に作られたセラミック製の巨大な人間が会場に直立している。そして、この人間を取り囲む植木鉢には、彼の庭の植物がそのまま持ち込まれている。
二人の作品が対峙したとき、浮き彫りとなるコンセプトとは何か。恐れずに言うならば、いわゆる「コンセプト」のないことだ。それは——わかりやすい意味での——アーティスティックなコンセプトだ。
例えば、水戸部の同時期のシリーズである『Picture Diarly』(東京オペラシティ)におけるステートメントには「差別や偏見なく、 他者という存在を全人格的に受け入れる彼女の制作姿勢が色濃く窺われる」とある2。この態度は本展においても通底する。『Picture Diarly』において水戸部は日々触れるニュースをモチーフにし、匿名の人物を描くことも多かった。本展で水戸部がモチーフとするのはいわゆる著名人であるが、そこに歴史と現状をフラットにするような恣意性はない。水戸部は外界情報をコンセプトの生成手段として得るわけではなく、そこにあるのは、情報が過度にはいってくる状況、それを描かずにはいられない水戸部自身の衝動と、そして結果として「絵画がある」という事実だ。
また、根本の『発掘された人間』もまた、大地から人間を立ち起こしたいという彼自身の欲求が根底にあって、そこに無理にコンセプトを生み出そうという作為はない。それが自邸の庭から立ち上がり、作品という形でこのホワイトキューブに移植されたということ、そして同じくしてその庭の植物を持ち込んだこと——それに非物質的な、いわゆるコンセプトは存在しない。そこにあるのは作家自身の純粋な衝動なのだ。
そして、コンセプトが求められるのは、「わかりやすい」を燃料に加速しつづける現代アートサーキットに起因するかもしれない。ただ、いわゆる「わかりやすい」コンセプトがなくとも、二人の作品が圧倒的な衝動によって生み出されたことは一目瞭然である。一方、わかりやすいコンセプトを語ること、語らせようとすることは、作品をゆがませ、がんじがらめにすることでもある。明確なコンセプトがあり制作したとしても、制作過程でコンセプトは変化し、作品も変化する。そしてまたそれが展示される際にも作品、あるいはそのコンセプトも変化してしまうものなのだ。
それに留意しながら、一点だけ述べると、当然のことながら二人の作品には、わかりやすく絵画的であること、わかりやすく彫刻的であることへの反駁があり、そこにはアーティスティックなコンセプトへの希求があるのかもしれない……とも考える。展覧会は極めて非物質的なものの凝集であり、そこから生まれる鑑賞体験もまた非物質的だ。そして、作品自体はもちろん物質的な現れをもつものだ。しかしながら、複雑さを増していく世界のなかで数多の表現手段が可能となる現代アートでは、コンセプトと作品自体との非物質的な関係も鑑賞の対象であるということをここに強く述べておきたい。
高木 遊