Study of Dansaekhwa/Dansaekhwa

2025.3.05

韓国のレジデンスに参加していたものの、特に能動的な意義を見出せずにいた。

底冷えのするスタジオで、日本にいる友人と韓国について話していた。その会話の中で、彼は「単色画」というものが韓国にはあると言った。 「単色画」が盛んに描かれた頃と今では、時代も、社会状況も、アートをめぐる環境もまるで違う。 しかし、偶然にも出会ってしまった「単色画」は、私を強く惹きつけた。

私の作品は、常に「過剰さ」に満ちている。それとは対極にあるはずの「単色画」が、なぜこれほどまでに魅力的に感じられるのか。
キャンバスを単なる支持体ではなく、行為そのものとして捉える姿勢。絵画が身体の延長として存在しうるあり方。それらに深い共感を覚えた。 さらに、その洗練されたストイシズムや宗教的な精神性は、「過剰さ」に埋もれていた私にとって、新たな可能性の扉を開くもののように思えた。

「単色画」が軍事政権下で、自由を抑圧されるなかで生まれたという事実にも、強く心を引かれた。 厳格な家庭で育った私は、親の目や言葉に敏感な子どもだった。常に何かに怯えていたように思う。 しかし、絵を描いているときだけは褒められ、自分が存在する確信のようなものを感じることができた。

もしかすると、あの頃の私にとって、絵を描くことは唯一の自由を得る手段だった。
しかし今、画家として生きている私の中では「過剰さ」が抑圧として作用するようになってしまったかもしれない。

画家である私に「過剰さ」が求められていることが自分自身でわかってしまうからこそ、その期待に応えようとしてしまう。それは知らず知らずのうちに、私を解き放つものから、縛り付けるものに変わってしまったのではないか。結局、私はあの頃と何も変わっていないのかもしれない。私の中にある抑圧と、それに対する抵抗。それを、これまでのように「過剰さ」で塗り込むのではなく、異なる方法で希望を見出すことができるのかもしれない。 単色画によって。

水戸部七絵

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個展「Study of Dansaekhwa」「Dansaekhwa」
(アートフロントギャラリー、東京、2025年)に寄せて

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