アメリカでモダニズムを推進した美術批評家クレメント・グリーンバーグは「イーゼル画の危機」(1948)という論考において、イーゼル画は「箱状の凹んだイリュージョンを背後の壁の中に穿ち、この内部にある単一体としての三次元的な類同物を組織する」と指摘し、彼がエドゥアール・マネに始まるとしているモダニズム絵画の歴史を、絵画表面の向こう側に広がるそうした空洞の空間を平面化していく過程として描き出した1。そもそもグリーンバーグよりすでに500年ほど前に、初期ルネサンスの芸術家・理論家であるレオン・バッティスタ・アルベルティが、「私は自分が描きたいと思うだけの大きさの四角のわく[方形]を引く。これを、私は描こうとするものを、通して見るための開いた窓であるとみなそう」2と述べて、絵画を「開いた窓」にたとえていたのであった。モダニズム以前の伝統的な絵画は基本的に、遠近法などの絵画的技法を用いて、あたかもそれが開かれた窓であるかのように、その透明な表面3の向こう側に虚構の三次元空間をつくり出そうとするものであったと言うことができよう。
一方、現代の画家である水戸部七絵の作品では、絵画の支持体は伝統的絵画のように「開いた窓」として透明化されるどころか、壁のように観客の前に立ちはだかったり壁に斜めに立て掛けられて物体としての存在感を露わにしたりして、自らが不透明であることをむしろ誇示している。例えば、rin art associationで開催された「黒い顔・白い顔」展で2階に展示されていた《怖い顔》(2023)や《Friends in striped T-shirts》(2023)といった作品においてその支持体は、黒皮鉄という特殊な鉄でつくられているため、開かれた窓や透明なガラスとしての絵画とは違って観客の視線を通過させることなく、自身の上に形づくられた像に劣らない異様な存在感を発揮していた。本展のメインビジュアルともなっている1階の巨大な《黒い顔》(2017-23)は、かなり目の粗いキャンバスを用いていることに加え、そのほぼ全体がグロテスクなまでに大量の絵具によって覆われ、さらに、重すぎて壁に掛けられないという理由があるにはせよ、壁に斜めに立て掛けるというやり方で展示されているため、その支持体の物質性を隠すことなく露呈し、その向こう側にイリュージョンの空間を描き出すことはないのである。
いま触れたようにこの《黒い顔》という絵画は、しばしば水戸部作品の大きな特徴であるとされる過剰なまでの絵具の厚塗りによって形づくられた作品である。タイトルからわかるとおり、それはある顔を描き出しているのだが、伝統的な絵画のようにさまざまな技法を用いてイリュージョニスティックに顔を表象するのではなく、絵具の物理的盛り上がりによって支持体の上に顔を築き上げている。すなわち、実際の人間の顔において鼻や眼、口唇などの部分に物理的な出っ張りがあるのと同様、《黒い顔》という絵画でも、側面から見ればわかるように、顔の部分が背景よりも絵具の大量の塊によって実際に突出している。言ってみれば、水戸部の絵画には、正面から顔を描いたものであっても、通常の肖像画ではあり得ない横顔が存在するのである。同じく本展に出品されている《茶色の人》(2017-23)でも、人の全身の形が実物の人間のように支持体の表面から物理的に突き出ている。
だが、水戸部が制作しているのは必ずしも、《黒い顔》のように極度の厚塗りの作品ばかりではなく、たとえ一般的な絵画よりも厚塗りであったとしても、その度合いにはさまざまなものがある。「黒い顔・白い顔」展でも、先ほど触れた《怖い顔》や《Friends in striped T-shirts》のように黒皮鉄を支持体として使っている作品は、水戸部のトレードマークとされる極端なまでの厚塗りを用いていない。ここで同じく黒皮鉄を使用した別の作品、《Side profile of a friend in striped clothing》(2023)を例として取り上げてみることにしよう。いま述べたように本作は、《黒い顔》や《茶色の人》のように絵具が表面から極端に突き出ている厚塗りの作品というわけではないが、この人物を形づくるそれぞれのタッチは即興的でありかなり激しいもので、その物質性を露わにしている。そして、トルソのストライプ部分だけを抜き出してみるならば、各々のストライプの線は服の縞模様を構成していながらも、何らかの全体的イメージを紡ぎ出すことのない抽象的な線に見えてくるほど自律性を依然として保っている。したがって本作は、絵画の表面を「開いた窓」のように透明化することでその向こう側に虚構の光景をつくり上げているどころか、むしろ黒皮鉄という特殊な支持体の物質的な存在感でもって観客の視線をその表面において押しとどめ、黒皮鉄の上で踊るそれぞれのタッチは、自律性を失うことなく絵具の物質性を露呈しながら鉄の支持体の手前で人物を描き出している。
したがって、水戸部七絵の作品において重要なのは、絵画表面の向こう側に創造される虚構空間ではなく、むしろその表面の手前側にある現実空間であると言うことができる。目の粗いキャンバスや黒皮鉄といった不透明な支持体は、開かれていた窓を閉ざし、窓の向こう側へと向けられていた観客の視線を遮断する。支持体の上に過剰に盛られた絵具の塊は、絵画の虚構の空間にとどまることなく、観客が存在する現実の空間にまで越境し飛び出してくる。そこで観客はもはや、自分とは関係のない虚構を描いたものとして「無関心」な気持ちで絵画を見ることはできない。水戸部の絵画は我々観客に、同じ空間に存在する現実的なものとして自らを突きつけ、絵空事の虚構の世界ではなく我々がいる現実世界に関わる存在として自分自身を提示するのである。
よって、このような絵画のあり方においては、絵画と観客との関係性もまた変化することとなる。再び先ほどの《黒い顔》を例に挙げてみると、本作をかなり遠く離れて見るならば、観客はそこに、眼や鼻、口などを見つけ、画面いっぱいに広がる人間の顔を何とか認識することができるだろう。しかし、画面全体を一度に視野に入れることができないほど近づいて見たならば、もはやそこに顔を認めることができず、それはさまざまな色や形を持った、物理的な厚みのある絵具の塊へと解体していってしまう。したがって、展示会場という現実的空間における観客との距離の変化によって、絵画は顔というイメージとしてゲシュタルトを結んだり、物質的な絵具の塊へと分解したりと、その姿を変容させることになるのである。同じことは、程度の差こそあれ、黒皮鉄を支持体に用いた先述の《Side profile of a friend in striped clothing》のような厚塗りでない作品についても言うことができるだろう。
さらに水戸部の作品は、観客に関わるだけでなく、むしろ観客よりも先に絵画の手前側にいたもう一人の存在、つまり作家である水戸部にも関係する。今まで水戸部が製作してきた肖像画は、「黒い顔・白い顔」展の出品作品も含めて、欧米人など海外の人々ばかりをモデルにしている。これはもちろん、決して偶然に起きたことではなく、作家による意図的な選択であると考えるべきだろう。なぜそのような選択がなされたかについて検討するために、ここで「黒い顔・白い顔」展から離れて、水戸部の他のシリーズも参照してみることにしたい。水戸部は、2019年にMaki Fine Artsで開催された個展「I am yellow」について次のように述べている。
昨年、Maki Fine Artsの私の個展タイトルは『I am a yellow』とした。黄色人種(もちろん私自身も含めて)が制作のテーマである。作品で制作した絵画はドナルド・トランプ、マイケル・ジョーダン、マイケル・ジャクソンなどでここに“yellow”はいない。いや、“yellow”はこれらの絵を描いた“私自身”である。4
「I am yellow」展において展示された絵画ではみな、トランプやマイケル・ジャクソンのような欧米の著名人たちばかりがモデルとなっている。しかし、水戸部が上の引用部で自ら語っているように、そこで実際にテーマとなっているのは、それらの人々を選択し描いた、欧米人ではない水戸部自身である。すなわち、それらの作品は、直接的には欧米の有名人たちの肖像画であったとしても、実際のところそこには作家である水戸部が間接的に映し出されていると言うことができる。
直接自分や日本人を描くことをしない訳を、水戸部が小学生のとき以来日本人の容姿や精神性に抱いていたというコンプレックスに求めることができるかもしれない5。自らの容姿やナショナリティ、エスニシティに対するコンプレックスは、自らとは異なる存在と自分自身を対比することによって初めて生じるのであり、つねに他者との関係性において存在する。フランスの精神分析学者ジャック・ラカンの鏡像段階論を引き合いに出すまでもなく、そもそも自己というもの自体が、最初から自らの力によって単独で発生するのではなく、他者との関係において、他者という鏡像を見ることを通じて初めて立ち現れるのである。それゆえ、自分自身を直接見つめるよりも、自分と関わる他者を見ることによって自分自身をより深く知ることができる。同じことを水戸部の肖像画についても言うことができるだろう。直接的に自分自身を取り上げるというやり方ではなく、むしろ自分が関係(コンプレックスもまた一つの関係である)を持つ他者を描くことを通してその裏返しとして間接的に自分自身をそこに描き出すことができるのである。
したがって、鏡がその前に立つ者を左右反転させて反映するのと同様に、水戸部が描く欧米人たちの肖像画もまた、自分ではない他者が水戸部を反映しているという意味において、水戸部自身を反転させて映し出す鏡であると言うことができるだろう。すなわち、水戸部による欧米人たちの肖像画は実際には、自分ではない他者という鏡に作家である水戸部を映し出す自画像なのである。そもそも絵画は、冒頭で述べたように「開いた窓」にたとえられてきただけでなく、アルベルティ自身が絵画のことを「ナルキッソスの技芸」と呼んでいたように、ナルキッソスの神話に基づいて鏡にもなぞらえられていたのであった6。水戸部は、絵画がもともと持っていた鏡としての側面を、異なるやり方で現代に蘇らせたと言うこともできるだろう。
しかし、水戸部の肖像画はただ自分自身を反映するナルキッソスの鏡であるだけにとどまらない。そこには逆に、水戸部七絵という一人の人間を通して現代の社会もまた同時に映し出されているのである。現代社会に対する水戸部の関心が最も顕著に作品に現れているものとして、コロナ禍のなかで2020年から開始された「Picture Diary」シリーズを挙げることができるだろう。これは、covid-19のパンデミックのため自由に外を移動することができなくなりアトリエに引きこもることを余儀なくされた水戸部が、ソーシャルメディア上に流れてくるさまざまなニュースを、その名の通り絵日記のように絵画にしたシリーズである。先ほども述べたように、作家自身によって選択された世界中の出来事をモチーフとしたこれらの絵画が、作家自身が制作当時抱いていた社会的・個人的関心を反映しているという意味で反転した自画像であるのは確かだ。しかし、それだけにとどまらず、同時にそれらは、水戸部というフィルターを通した、つまり水戸部というもう一つの鏡に映し出された現実の出来事でもあると言うことができるだろう。言い換えれば、水戸部のこれらの作品は、自画像として水戸部七絵という一個人を表すドキュメンテーションであるだけでなく、大手メディアの「客観的な」ニュースとは異なる、水戸部の主観的視線を通過した現代社会を記録するドキュメンテーションなのである。そこでは、絵画表面の向こう側にある虚構の世界ではなく、その手前側に存在し我々とも関わる現実世界こそがまさに問題となっている。したがって、水戸部七絵の絵画は、一つのイメージを表していながらも、作家自身を映す鏡と現実世界の出来事を映す鏡とが二重になった合わせ鏡であると言ってもよい。
このようなダブル・イメージは、「Picture Diary」シリーズだけでなく「黒い顔・白い顔」展の出品作品など水戸部による他の多くの作品にも、また別のかたちで見出すことも可能である。例えば、「黒い顔・白い顔」というタイトルからして、白色人種や黒色人種という鏡に映し出された黄色人種の水戸部と、水戸部という鏡に映し出された現代の人種問題という二重のイメージをそこに見て取ることもできるだろう。水戸部の作品において核心をなす絵画表面の手前側とは、観客や作家自身のことであるのと同時に、現代の社会のことでもあるのだ。
菅原伸也(美術批評家)
1 クレメント・グリーンバーグ「イーゼル画の危機」藤枝晃雄訳『グリーンバーグ批評選集』藤枝晃雄編訳、2006年、勁草書房、77頁。
2 レオン・バッティスタ・アルベルティ『絵画論』三輪福松訳、1992年、中央公論美術出版、26頁。
3 アルベルティは、「輪郭で囲まれた場所を彩色する場合に、面の上に見られたものの形を、表すことだけに努めるべきである。それはちょうど透明なガラスの上に描くように。このようにして、視的ピラミッドがその面を通過することが出来るのである」と述べ、絵画表面を「透明なガラス」にもたとえている。アルベルティ前掲書、20頁。
4 以下のサイトを参照。
https://www.holbein.co.jp/scholarship/record/vol33/6.html
5 「水戸部七絵をかたちづくるもの」(構成・文 杉原環樹)水戸部七絵『Rock is Dead』美術出版社、2022年、p.106.
6 岡田温司「イメージの根源、根源のイメージ」『イメージの根源へ––––思考のイメージ論的転回』2014年、人文書院、p.13.
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水戸部七絵 個展「黒い顔・白い顔」
(rin art association、群馬、2023年)に寄せて