画廊に入る前から油絵具の匂いが感じられるほど、まだ生々しさの残る絵画の数々が展示された空間にはロックが流れている。展覧会場にBGMが流れているのか、と思うとそういうわけではない。これはロック・スターたちが描かれた絵画の展覧会であり、音楽はそこに描かれた、モチーフとなったミュージシャンによるものが含まれていて、いわば展覧会に付随する要素とみなすべきものだ(音量は爆音、というわけではなく案外控えめだったかもしれない)。その音楽が誰による何という曲なのかは、わからない人の方が多いかもしれないが、それが作品とどのような関係にあるのかは、わからないまでも察せない人はいないだろう。これは水戸部七絵の「Rock Is Dead」と題された展覧会なのだから。
壁に飾られた大小さまざまな絵画は、やたらと粗目のキャンヴァスに、中まで乾いているのだろうかと思わせるほど、油絵具が山のようにたっぷりと盛られていて、それを平面と呼ぶことを躊躇させるほどの量塊となって、壁から落ちてしまいそうなくらいに重く見える(実際に重いだろう)。それは、グロテスクにデフォルメされた下着姿のシェリー・カーリー(ザ・ランナウェイズ)であり、山本寛斎の衣装を身につけたジギー・スターダストとしてのデヴィッド・ボウイであり、画面から飛び出して来そうなポール・スタンレー(キッス)であり、その他、数々の知る人ぞ知るロック・スターたちのポートレートだ(ミュージシャンのポートレートは彼ら彼女らのよく知られた写真がモチーフになっているように思われる)。英国のアート・コレクティヴ、アート&ランゲージに「ジャクソン・ポロックのスタイルで描かれたV・I・レーニンの肖像」(1980)というシリーズの作品があるけれど、水戸部の描くロック・スターたちは、どこかウィレム・デ・クーニングの人物画のように、抽象表現主義風に描かれ、原型をとどめないほど極端に異化されている。
それがある種ステレオタイプとも言えるような、「ロック」のアイコンとして、よく知られたミュージシャンたちである、ということを知っている必要はないだろう。すでに、あるいは以前から、ロック・スターというものは、そうは言っても社会的にはマイナーな存在にすぎないし、ジョン・レノンを知っている人もどんどん少なくなっているらしい。それが誰であるのかを言い当てられることは、これらの絵画作品への導入として、鑑賞をより楽しませることには役立つかもしれない。とはいえ、それはかならずしも必要ではない。一方、描かれた対象を知っている場合においても、それが誰を描いたものなのかを認識するすべは、その衣装であったり、もっと言えば、画面や画廊の壁に書かれた、それが誰であるかを指示する文字であったりする。画家によってロック・スターが描かれている、その表象としてのイメージをただ楽しめばよい、誰であるかは事後的に確認すればいいし、もちろんしなくても構わない、という程度に、描かれた対象との距離感のようなものも感じる。
水戸部の描くロック・スターたちは、たとえば合田佐和子が描いたボウイやルー・リード、あるいはイギー・ポップやリチャード・ヘルのような人物たちのポートレートとは趣を異にするものだ。合田の描くポートレートは、そうしたロック・スターたちへの、画家自身の憧憬と、その投影として、被写体の妖艶さを、その画面の肌理とともにより深めているように感じる。対して、水戸部の作品は、観客にモチーフとなったミュージシャンへの感情移入を容易にさせない。この展覧会のシリーズ「Rock Is Dead」を制作する契機となったのは、2016年の英国のロック・ミュージシャン、デヴィッド・ボウイ(1947-2016)の死だったと言う。水戸部は、描くことのできないほどのボウイの美しさに言及しているが、だからなのか、そのイメージは対象となった元のイメージを大きく逸脱し、むしろグロテスクでさえあり、カリカチュアライズされた抽象的なものになっている。もちろん、これまでの水戸部の作風を考えれば、ボウイの美しさを、たんに美しさとして愚直に表現することはないことは想像できる。
画廊の壁に書き殴られた「Life on Mars?」は、1971年のアルバム『Hunky Dory』に収録されたボウイの歌であり、そのタイトルである。家庭から疎外された少女が映画館に通い、何度となく観た、もはや退屈でしかない映画を観ながら、火星に想いを馳せる。そんな退屈な状況の中から、ジギー・スターダストはテレビに現れ、スターマンの存在を歌い上げ、テレビの前の子どもたちを指差した。もちろん、ボウイがほんとうに宇宙からやって来た救世主であるわけはなく、それはただの作り話であり、あくまでも作られたキャラクターであるにすぎない。しかし、そういうものが信じられた時代は、たしかに存在した。ボウイは、先のアルバムの冒頭に置かれた曲「Changes」で、「時間は私を変えるかもしれない、でも私が時間をなぞることはできない」と歌い、つねに以前とちがう、まわりとちがう人間(different man)であらねばならないと宣言した。そうした、つねに自身を異化し続けることがロックの謂であるなら、ロックはいつだって新しく、死ぬことはないはずだ。
個人的には、ボウイがもっとも美しかった時代なのではないかと思う、映画「地球に落ちてきた男」(1976年)で、ボウイの演じる宇宙人トーマス・ジェローム・ニュートンは、謀略のため故郷の星に戻ることに失敗し、その能力を奪われ、歳をとらず(地球人よりも極端に老化が遅い)、人間のふりをしたまま、地球で長い余生を過ごす。それは、どこかリタイア後のロック・スターを思わせもする。ロックもグラム・ロックもパンクもニュー・ウェーヴも終わったあと、90年代という時代は、ロック・スターをもっと生身の人間として受け止めなければならない時代の始まりだったように思う。そして、ボウイも(がんばってはいたけど)ふつうのおじさんを生きるようになった。ロック・スターという超然的な存在を通じた共同幻想の不可能性が、すなわち「Rock Is Dead」だったとするなら、かつてのような意味でのロック・スターはもう登場することはないだろう。
絵画が批評家によって何回も殺されて、そしてまたメディアによって何度でも生き返えるように、ロックもまた何回でも生き返ってきたし、これからも生き返るだろう。それは、なにも死んでもいないし終わってもいないのかもしれず、絵画やロックはただあり続けるだけだろう。しかし、それはもはやかつてのロックではありえず、すでにゾンビかミュータントのようなものなのかもしれない。それでも何かが再生される。水戸部の絵画の絵肌は、絵肌というよりは、もっと触覚的であり、物質そのものが露出している。絵の具の重なりがイメージとして像を結ぶというよりは、絵の具そのものが目の前にある、という感覚が強い。何を見ればいいのだろう。すでにロック・スターが不可能であるように、イメージがイメージであることを拒絶する。私たちに、それらが人物か何かのように見せかけるのではなく、絵の具の塊そのものが目の前にある。かつてロック・スターだったものの残骸がただそこにあるかのように。そのリアリティが現在を映している。
結局のところ、ロックも絵画も、あるいは芸術も死んだ後に、何が残されたのか、どのようにまた始めることができるのか、という問題でしかない。ジョン・レノンに「夢は終わった」と言われるまでもなく、たしかに(かつての)ロックは死んだ、という認識は共有されるべきだ。ロック・スターが世界を救ったことはなかったかもしれないし、もうロックがなにかを救うことはないのかもしれない。しかし、この世界のきびしい現実は、もういちど私たちが必要とするべきものは何かを確認させる。ロックも死んで、火星人がいないこともほぼ明らかな時代に、それでもなお、私たちは火星人がいるのだろうか、と想いを馳せ続けるように。
畠中実(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]主任学芸員)
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水戸部七絵『Rock Is Dead』
カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社・美術出版社書籍編集部/2022年/pp.20-23