2022年|荒木夏実(キュレーター/東京藝術大学准教授)|水戸部七絵-顔をめぐるポリティクス

2022.8.26

君が黒いか白いかなんて関係ないのさ。
マイケル・ジャクソン「ブラック・オア・ホワイト」(1991)より



マイケル・ジャクソンの顔が語るもの

 2022年の北京オリンピックにおけるフィギュアスケート男子シングルは、ネイサン・チェン、 鍵山優真、宇野昌磨がそれぞれ金、銀、銅メダルを獲得した。 中国系アメリカ人のチェン、日本人の鍵山、宇野と、表彰台に立った全員がアジア系選手だった。典型的「白人スポーツ」の伝統が長かったフィギュアスケートの世界で、今やアジア系選手は中心的存在である。

 「露出はとても大事だと思う。 自分と似た顔の人たちがテレビに出てかっこいいことをやってるのは、若い子たちにとってはやっぱり意味があることだと思うんだ」。アメリカのスケート界でアジア系アメリカ人が数多く活躍していることについて、ネイサン・チェンはインタビューでこう語っている。*1 どれほど多様性の大切さが語られるようになっても、人種の属性から人はなかなか自由になれない。見た目と実力、メディアが作り上げる印象とが絡み合い、繰り返されることによって、ステレオタイプが更新され、新たなイメージが発信されていく。

 水戸部七絵は「顔」の持つイメージと意味に執着しながら制作を続けてきたアーティストである。元々顔を描くことが苦手だったと語っているが、だからこそどうすれば描けるかを追求したのだろう。手がかりとなったのは大スターのマイケル・ジャクソンだった。2009年に急死したマイケルのドキュメンタリー映画『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』(2009年)に触発された水戸部は、彼の肖像を皮切りに数々のセレブのポートレイトに取り組み始める。 さらに2014年にアメリカを訪れた際、ネバダの砂漠でのテント生活を通して作品が「解放」され、目鼻口の描写にこだわらない抽象化された顔のアイデアが生まれる。それが「DEPTH」シリーズ(2014年〜)の始まりとなり、水戸部を象徴する、絵の具を厚塗りするスタイルへと発展した。*2

 水戸部はマイケルのモチーフを繰り返し描いている。しかしどの作品を見ても一目でマイケルだとわかるものはない。強いて言えば2019年に描かれた1点[Fig.1]にマイケルのアイコニックな赤いジャケットを見てとることができるくらいだ。実際のところ、水戸部のポートレイトはどれも本人に似ていないのだが、デヴィッド・ボウイのイッセイミヤケの衣装やフレディ・マーキュリーの拳を突き上げるポーズ、ドナルド・トランプの派手な金髪など、描かれた人物の手がかりとなる表象を見出すことができる作品もある。マイケル・ジャクソンの場合、黒人という彼の人種的アイデンティティにつながる色使いはほぼなく、塗り重ねられた絵の具の色合いは複雑で、抽象化されている。最も印象的なマイケルの肖像は、キャンバスの中央に色白で面長な顔が描かれ、長髪が左右に広がっている作品(2019)[Fig.2]だ。目は閉じられているのか虚空を見つめているのか判然としないが、オレンジ色の唇は微笑みを湛えている。

 一見平和で穏やかに見えるマイケルのポートレイトが表すものは何か。突然の死を含め、マイケルの人生は謎とスキャンダルに満ちていた。兄弟によるグループ「ジャクソン5」の一員として幼い頃からショウビジネスの世界で働き、今なら児童労働や搾取が問題になったであろう、特殊な子供時代を過ごしたマイケル。整形手術を繰り返すことで変化した顔、白さを増していった肌の色。『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』で見せた仕事へのひたむきな姿勢とプロ意識。しかしそのイメージを裏切るかのように、映画『ネバーランドにさよならを』(2019年)ではマイケルによる少年への性的虐待疑惑がセンセーショナルに取りあげられた。死後10年以上が過ぎてもなお、マイケルは議論の渦中にある。特にこの10年で、かつては見過ごされていた問題が世界的に注目され、少数派が声を上げるようになった。人種差別、#MeToo運動、ジェンダーやセクシャリティの多様性、幼児虐待、文化の盗用。トラウマに蓋をしながら痛々しいほどの「変貌」を見せつつ、圧倒的な才能と努力でスターの地位を維持したマイケルは、現在生きていたらどのように自身と向き合っただろうか。

 マイケルの全盛期を知らない世代の水戸部が、その魔力に惹かれたかのようにマイケルを描き、現在も描き続けているのは、彼にまつわる様々なストーリーが自分自身のパーソナルな問題とも重なる部分があり、なおかつ社会において重要なテーマだからだろう。中学生で制服のスカートを穿いた時に 自分が女性であることを強く意識し、外見の美醜にこだわり始め、鏡の中の自分の姿を拒絶するようにな ったと水戸部は語る。*3 思春期特有の自意識とともに、この社会で女性であることの窮屈さを否が応でも感じ取っていたはずだ。「顔」とはこの世に生まれるすべての人に等しく与えられるにも関わらず、偏見や流行などの他者(強者)の評価によって規制され、矯正され、外部の価値観が内面化される人為的かつ歪なものであることを知るがゆえに、水戸部は顔を描くことに抵抗感を抱き、同時に描かねばならないという使命を感じていたのだろう。顔に対峙することは、自分自身と社会両方に向き合うことに他ならないのだから。

 何点も描かれたシリーズ「I am a yellow」(2019年〜)[115/p.104]は、そのタイトルが水戸部自身を表すことを示唆している。 しかし抽象的なマイケルの像とはっきりとは区別がつかない描写か ら、それが自画像であると同時に他者の肖像でもあることがわかる。「I am a yellow」という宣言には 対極するイメージが含まれる。コンプレックス、自虐、悔しさ、諦念。誇り、喜び、つながり、独自性。人間の アイデンティティとは、これら相反する要素が対立し、妥協し、混在するものだ。差別的ニュアンスを含むyellowというアイデンティティを高らかに表明することによって、水戸部は見る人を挑発する。優越感や劣等感、帰属意識と分断を生じさせる人種の政治性から自由な者は誰もいない。

ハンス・スローンとアートの罪

 2020年、世界がコロナ禍に見舞われる。 海外への憧れが強く、旅を通してグローバルなアートの動向を調べたり、制作のインスピレーションを受けてきた水戸部だが、自由な移動が許されなくなり、活動スタイルの変化を余儀なくされる。そこで始めたのがアトリエにこもったまま制作する絵日記「Picture Diary」シリーズ[Fig.3] だった。SNSで流れてくる、フェイクニュースも含めた世界のニュースを自動翻訳機を使いながら読み、わからなさを残したままイメージを描いていく。話題は動物やスポーツ、政治に至るまで様々である。

 このシリーズの中で水戸部が着目した人物の一人がハンス・スローン(1660-1753年)だった。 2021年の「VOCA展2021 現代美術の展望一新しい平面の作家たちー」(上野の森美術館、東京)で水戸部がVOCA奨励賞を受賞した際、巨大なスローンの肖像画[Fig.4]はひときわ目を引く迫力を放っていた。マイケル・ジャクソン同様に、描かれているのは現存するスローンの肖像[Fig.5]とは似ても似つかないイメージである。巨大な耳を持ち、不気味な笑顔を浮かべ、黄色の毛髪のようなものに覆われた顔。塗り重ねられた絵の具のタッチの激しさから伝わってくる多義的な感覚。攻撃性を帯びた絵画は、見る者の感情を揺さぶってくる。

 17〜18世紀のイギリスで医者として活躍したハンス・スローンは大蒐集家で、彼の遺した71,000点以上のコレクションが大英博物館の礎となり、さらにロンドン自然史博物館と大英図書館の基礎となった。スローンが住居を構え地主となったロンドンのケンジントン・チェルシー地区には、スローン・スクエア、ハンス・クレセントなど、現在も彼の名を冠した地名が数多く残されている。*4

 ところが2020年8月、新型コロナウイルス対策のために休館していた大英博物館が再開した際に、館にとって重要人物であるスローンの胸像が台座から下ろされ、別の棚へと移されたことが明らかになる。閉館中に起きたブラック・ライヴズ・マター運動(以下、BLM)の影響により、スローンと奴隷制度との関連が問題視されたのだった。*5

 2020年5月25日、ミネアポリスの警官によって黒人男性が殺害された「ジョージ・フロイド事件」に端を発してBLMが世界的な広がりを見せた。この黒人差別反対運動において、差別と深く関わるか つての奴隷制度と植民地支配、白人優位主義の価値観へ批判が向けられ、それに関連した歴史的人物が注目された。アメリカでは南北戦争で奴隷制の存続を支持した南軍の「英雄」の像が標的となり、首都ワシントンでアルバート・パイク将軍の像が、*6 バージニア州ではウイリアム・カーター・ウィッカム将軍やジェファソン・デービス連合国大統領の像が引き倒された。*7 最も有名な南軍の功労者ロバート・E・リ一将軍の像は落書きで覆われ、その撤去を求める激しいデモ活動が行われた。2021年9月、130年以上の歴史を持つ像はついに撤去された。*8

 水戸部はリー将軍像の撤去のニュースから着想した作品 《Statue of American Confederate General Robert E. Lee removed in Virginia》(2021年)[080/p.086]を制作している。絵画の中に石膏像の一部が埋め込まれており、それを取り除こうとする人物のシルエットが描かれている。左上に見える文字「Status(身分)」に 「Statue(像)」が掛け合わされている。 英雄を讃えるために恒久的に設置される彫刻のモニュメントとしての機能を、水戸部は美術における伝統的素材である石膏を絵画に持ち込むことによって表そうとした。

 像撤去の動きはイギリスにも波及した。2020年6月、イングランド南西部の港町ブリストルでは奴隷貿易で富を得た商人エドワード・コルストンの像が引き倒され、海に投げ込まれ、その様子が世界中に報道された。*9 ロンドンではジャマイカで奴隷貿易に関わったスコットランドの商人ロバート・ミリガンの銅像が撤去され、*10 元イギリス首相ウィンストン・チャーチル像に「人種差別主義者」と落書きされる事件も起きた。*11

 この激しい世論に対応すべく大英博物館が「先手を打って」ハンス・スローンの像を移動したのは得策だったのかもしれない。スローンのコレクションとは、まさしく帝国主義の一側面を表すものだ ったからだ。アイルランド出身のスローンは、皇室の患者を持つなどロンドンで医者として成功した後、当時のイギリスの植民地であるジャマイカ総督アルペマール公爵2世の専属医師として、ジャマイカに同行する。そこで現地の植物や動物、珍品を集めたのがコレクション構築の始まりとなった。ジャマイカの砂糖プランテーションを相続したエリザベス・ラングリー・ローズとの結婚後はプランテーション経営による巨万の富を得て、他の蒐集家の所蔵品や植民者による北アメリカ、西インド、南アジア、東アジアからの収集品を買い取りながら、コレクションを拡大していく。*12 スローンの収集が大英帝国の植民地政策と奴隷制度に支えられたものであることは明白である。

 一人の黒人の死によって湧きあがった人々の怒りは、南軍の将軍たちとともに蒐集家のハンス・スローンの亡霊を約300年前の帝国主義時代から召喚し、コレクション、ミュージアム、そしてアートの持つ罪深い性質を露呈した。水戸部が描くスローンのグロテスクな顔には、歴史における幾層ものストーリーが塗り重ねられ、そこから逃れることのできないアーティスト自身の存在もまた投影されている。

社会の中を生き抜くアート

 きれいごとではなく、真にアーティストとしてサバイブするために、現在の社会と経済の状況にアートをどう接続させるかについて水戸部は考え続けてきた。水戸部の作品は絵の具の厚塗り具合によっては、重すぎて壁面に掛けることができず、床置きにしたり立てかけたりすることもある。サイズや重量の問題でアトリエから出すことすら難しい作品もある。重さや匂い、耐久性、展示・保管方法など、作品には物理的な「やっかいさ」が伴う。収蔵や展示が決して容易ではない作品をどうプロモーションしていくか、水戸部は自ら試行錯誤を重ねた。さらにコレクターや画廊、美術館とのやりとりを通して、資本主 義の仕組みや美術におけるヒエラルキー、制度や制限の問題にも気づかされていく。大学では「良い作品を作れ」としか言われずアートとお金の話は全く習わなかったが、一歩現実世界に出れば、アートとマ ーケットは直結している。そもそも大量の絵の具を使用する水戸部にとって、材料費を得るために作品を売ることは死活問題なのだ。*13

 高額で売れたバスキアの絵やバンクシーの発言などの話題が「Picture Diary」シリーズに描 かれているように[067/p.078, 070/p.079]、水戸部はアートとマーケットの関係に注目してきた。経済を肌で知るために株を購入し、アートオークションの結果をチェックし、マーケットの仕組みを学んでいく。画家としてアトリエを持つことをポリシーとし、300坪の土地に工場跡を使った広いアトリエを構えた。メーカーから一斗缶単位で絵の具を購入し、庭でキャンバスを張り、巨大な作品をクレーンで吊り上げる。大胆にも見える堂々とした活動ぶりは、「生半可な活動では趣味だと思われ、自分の首を絞めることになる」という分析の上での行動であり、退路を断った覚悟の表れなのである。*14

 深刻なテーマをはらみながらも、ポップなタッチと親近感を覚えるモチーフを用いる水戸部の作品は、鑑賞者やコレクターをアートの世界に引き込む力を持っている。現実社会やマーケットとあまりにも乖離した、金銭の話題やわかりやすさを忌避するアカデミズムの世界に疑問を持つ水戸部は、自身のポリシーを貫きつつ作品を外へと開き、より多くの人との対話を試みる。ポップスターから人種差別まで、世界にあふれているニュースを直感的に拾いながらがむしゃらに描く水戸部の絵画には、テーマと 技法両面から見る人に関心を抱かせ、引きつける魅力がある。葛藤と分析の末にたどり着いたこの手法は確かに成功したと言える。

 ただし、ニュースの本質と距離を置きながら大量の情報を素材として集める水戸部の技法には細心の注意が必要だろう。アートに特有の行為である「収集」には搾取の危険が避けがたく潜む。さらにアートを取り巻く社会、政治、経済の中で、その文脈や価値は多様な読み取りによって変化する。近年では、定番のおとぎ話も無邪気に読むことは難しくなった。水戸部が注目したBLM以降、人種や植民地の歴史、ジェンダーなど、支配階級とマイノリティ間の構造に関する問題はあらゆる分野でますます無視できないものになっている。予定調和的な「定説」は崩れ、誰の視点で語られたストーリーか、誰の価値判断かについて再考察が求められる。この世を去ったスーパースターや偉人も批判を免れることはできない。今後もマイケル・ジャクソンの疑惑への追及は続き、ハンス・スローンは繰り返し糾弾されるだろう。

 今後海外での学びを計画しているという水戸部には、遠くのどこかではなく、目の前で起こっ ている論争や運動に否応なく巻き込まれ、自分ごととして体験する機会が増えるだろう。描くことができない時期を経験するかもしれない。しかし、一つひとつのできごとに正面から向き合い、他者を観察し、想像力を研ぎ澄ませ、迷い、熟考することで、水戸部の作品がさらに深化していくことを予感している。安易に問題を避けるのでなく、議論を呼ぶテーマに果敢に挑戦するこれまでの水戸部の姿勢は、今後の飛躍のための重要なポテンシャルである。あらゆるポリティクスを抱えたアートの「やっかいさ」から、目を背けることなく進み続ける水戸部の次なる展開に期待している。

荒木夏実(キュレーター/東京藝術大学准教授)


*1 Andrew Keh “The Asian American pipeline in figure skating.” The New York Times, Feb. 8, 2022
<https://www.nytimes.com/2022/02/08/sports/olympics/figure-skating-chen-asian-americans.html>

*2 「画家: 水戸部七絵さんに訊く」横浜美術学院ウェブサイト、2021年6月16日
<https://e-s-w.com/message/2021-obog/>

*3 「第33回奨学生のレポート6 水戸部七絵」ホルベインオフィシャルウェブサイト、2020年
<https://www.holbein.co.jp/scholarship/record/vol33/6.html>

*4 “Sir Hans Sloane,” The British Museum Story, The British Museum
<https://www.britishmuseum.org/about-us/british-museum-story/sir-hans-sloane>

*5 “British Museum removes statue of slave-owning founder,” The Guardian, Aug. 25, 2020 (This article’s headline was amended on 26 August 2020)
<https://www.theguardian.com/culture/2020/aug/25/british-museum-removes-founder-hans-sloane-statue-over-slavery-links#:~:text=The%20British%20Museum%20has%20removed, confront%20its%20links%20to%20colonialism.>

*6 Rachel Sadon & Christian Zapata “Protesters Topple, Burn Statue of Confederate General Albert Pike in Judiciary Square,” DCist, June 20, 2020
<https://dcist.com/story/20/06/20/protesters-confederate-general-statue-albert-pike-in-dc/>

*7 “Jefferson Davis statue joins Christopher Columbus, Williams Carter Wickham in being pulled down by protesters,” RVA HUB, June 11, 2020
<https://rvahub.com/2020/06/11/jefferson-davis-statue-joins-christopher-columbus-williams-carter-wickham-in-being-pulled-down-by-protesters/>

*8 Brendan O’Brien “Statue of Confederate commander Robert E. Lee removed in Virginia capital.” Reuters, Sep. 8, 2021(Last updated: Sep. 9,2021)
<https://www.reuters.com/world/us/virginia-remove-statue-confederate-hero-robert-e-lee-wednesday-2021-09-08/>

*9 “Edward Colston statue: Protesters tear down slave trader monument.” BBC News, June 8, 2020
<https://www.bbc.com/news/uk-52954305>

*10 “Robert Milligan: Slave trader statue removed from outside London museum.” BBC News, June 9, 2020
<https://www.bbc.com/news/uk-england-london-52977088>

*11 Peter Stubley “Winston Churchill statue daubed with ‘was a racist’ graffiti during Black Lives Matter protests,” The Independent, June 8, 2020
<https://www.independent.co.uk/news/uk/home-news/winston-churchill-racist-graffiti-statue-blm-protest-westminster-a9553476.html>

*12 “Sir Hans Sloane”

*13 水戸部七絵によるレクチャー、東京藝術大学、2021年12月3日

*14 同上

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水戸部七絵『Rock Is Dead』
カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社・美術出版社書籍編集部/2022年/pp.10-19

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