2016年|副田一穂(愛知県美術館 学芸員)|顔の同一性

2016.1.03

 鉄製のパネルから突き出したそれは、水戸部七絵によると「顔」以外のなにものでもないのだが、そのサ イズといい生々しい絵具の肌理といい、一瞥では全体を把握させず、目鼻立ちを捉えたり表情を読み取ったりされることを頑なに拒絶しているかのようだ。そもそもこのタブローは、垂直に立てることさえ物理的にできない(そんなことをすれば、たちまち「顔」はずり落ちて、床の上でグズグズに崩れてしまうだろうということは容易に想像がつく)。湖面に映る自らの姿から目を離すことのできないナルキッソスにとって、風や魚が起こすさざ波はまなざしの先の美少年のイメージを毀損するものにしかならないように、再現的なイメージの産出と筆触とは本質的に相容れない。過剰な筆触は、イメージを象っているはずの輪郭を、そして「顔」に本来あるべきいくつかの開口部の一切を、無数の絵具の波のなかへと沈めてゆく。しかし同時にその筆触のひとつひとつこそが、「顔」をわたしたちの方へとせり上がらせている当のものでもある。鏡を挟んで対峙するというよりも、暗がりのなかで触って確かめるようにしか捉えることのできないこの「顔」は、折り重なった絵具の奥底と表面とのあいだで行ったり来たりを繰り返しながら、いつまでも「◯◯氏の顔」という誰かの肖像画にはなりきれないでいるかのようだ。
 ところで「顔」をつくるという点において、キャンバスに油彩で絵を描くために必要な知識や方法と、フェイシャルケアやメイクアップに必要なそれとは、驚くほどよく似ている。美しく健康な肌理をつくるためには、支持体(=キャンバス/素肌)のケアから始まる。丹念な目止め(=膠/化粧水)と地塗り(=ジェッソ/ファンデーション)によってできるだけ平滑に保たれた表面に、ときには幾何学的な錯視効果や色の効果をも駆使しながら、慎重に彩色を施してゆく。もちろん化粧のメディウムは乾性油ほどには安定せず、また支持体からも多用な分泌物が際限なく染みだしているので、比較的短時間で崩れてしまうという難点はあろう。いずれにせよこれらの筆触は、素の状態を覆い隠しつつ、各々が求める理想の「顔」へと向けて分厚く積み上げられていく。だとすれば、スッピンでも完成形でもない、いままさに作られつつある「顔」は、いったい誰を指し示しているのだろうか。そもそも避けがたく日々老いてゆくわたしたちに年齢相応の、場をわきまえた化粧が求められているのだとすれば、素顔や理想の顔でさえもまた、一つの確定した「顔」とは言いがたいのではないか。
 際限のない厚化粧は、素顔をもはや完全に覆い尽くし、あるべき「顔」へと向かっていまや自重で崩壊しかねないほどにせり上がっている。だが、気に食わなかったスッピンの顔も、理想に向けて背伸びしてゆく顔も、上手く仕上がった昨日の顔も、寝不足で化粧乗りの悪い一昨日の顔も、グズグズに崩れ落ちてしまった顔も、依然として他ならぬわたし自身の「顔」である。「顔」は絵具の底と表面とのあいだ、現実と理想とのあいだを常に動き続けており、またそのような変化のなかにしか、「顔」の同一性は存在しない。

副田一穂(愛知県美術館 学芸員)

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水戸部七絵 個展「APMoA Project, ARCH vol.18: DEPTH-Dynamite Pigment」
(愛知県美術館、愛知、2016年)に寄せて

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