画廊に入った途端、室内に立ち込める異様な顔料の匂い。この時点で水戸部の絵画の気配が漂う。スペースの広さに対して巨大な油彩が左右の壁に一点ずつ展示されており、片方はカンヴァスが真ん中で折れて前のめりになっている。水戸部の絵を展覧会DMで初めて見たとき、モチーフと画面構成との関係から画家・長谷川繁の濃厚な遺伝子を受け継ぐ者という印象を受けた。しかしながら彼女の作品と実際に対峙してみると、確かに豊かな絵画の語彙を継承している側面を窺わせるものの、さらに別の特徴が際立っている。それはストロークの集積によってつくり出された物質感である。 筒井宏樹
いずれの作品も人体を思わせる形象が描かれており、それらのモチーフはストロークの軌道をある程度導くものの、そこからイメージが浮かび上がるというよりもむしろ幾重にも重ねられたストローク自体が前景化している。つまり絵画のイリュージョンよりも顔料の厚みから生まれる生々しい物質感のほうが際立っているわけだが、それは折れたカンヴァスとも相まって、「絵画の解体」への水戸部の志向を窺わせる。しかしながら彼女のその志向は単に物理的な「絵画の解体」へと帰着するものではない。視る対象としての絵画を超えて、五感で知覚できるような対象として絵画を扱っているようである。あたかもそれが生命の宿る存在であるかのように。
迫力のある水戸部の絵画群と同じ空間に、高松の一色に染色されたワンピース型の衣服が何点か天井から吊るされている。衣服の真下には、それぞれ塩のような素材で作られた真っ白な矩形の塊が床に敷かれており、衣服からこぼれ落ちた染料を受け止めている。垂れ下がる衣服の長さは様々で、人体のサイズを超えるものもあることから、実用品というよりも別の要因で長さが決定されているようである。
隣の部屋の壁には地図とデザイン画が飾られている。地図上のナイル川やアマゾン川の位置に、河川敷をはためく鯉のぼりの写真が貼られている。それらの写真には未来の日付が入っており、詳細はわからないが高松が今回の作品に何らかの文脈を想定していることはわかる。さらに、繊細なタッチで描かれたデザイン画には衣服の代わりに鯉のぼりが描かれている。これらを見たあとに再び 会場に吊るされた衣服に目を向けてみると、それらは風が吹くのを待つ鯉のぼりのように見えてくる。本展を観る者は、存在感のある水戸部の絵画にまず圧倒されるだろう。それらを五感で味わいつつも、高松の作品にひとたび鯉のぼりを幻視するならば、展示空間全体がまるで時空転移を起こしたかのような錯覚に陥るかもしれない。
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筒井宏樹「レビュー:高松太一郎(pinepine)+水戸部七絵展「BLUMEN GARTEN」」『REAR:芸術批評誌』26号2011年
リア制作室/2011年/pp.133