2022年|太田光海(映像作家・文化人類学者)|色彩を持った遠近感、あるいはヘテロトピアについて

2022.6.11

 《ヘテロトピア》は不安をあたえずにはおかない。むろん、それらがひそかに言語をほりくずし、これ《と》あれを名づけることを妨げ、共通の名を砕き、もしくはもつれさせ、あらかじめ「統辞法」を崩壊させてしまうからだ。

―ミシェル・フーコー『言葉と物』―


 人は発見する。おたがいに発見する。おたがいにある一つの共同体の一員だと。他人の心を発見することによって、人は自らを豊富にする。人はなごやかに笑いながら、おたがいに顔を見あう。そのとき、人は似ている、海の広大なのに驚く解放された囚人に。

―サン=テグジュペリ『人間の土地』―


 展示室に足を踏み入れた瞬間、時空の歪みを覚え、「ここはどこだ?」と一瞬混乱した。ここは間違いなく極東の大都市東京であり、整備された品川区の埋立地なのだが、このホワイトキューブの中だけは、異国のような匂いがしたのだ。いや、異国というよりは、ルーツがどこにあるのか判然としない無国籍感、と言い換えたほうがいいかもしれない。さらに補足するならば、それは”cosmopolitan”よりは、むしろ”out of nowhere”という感覚の方が近いだろうか。ここで言う「匂い」とは、これでもかと油絵の具が重ね塗りされた水戸部の作品が強烈に発する物質的な匂いにも、根本が何重にも織り成す「土臭さ」との対話だけにも還元されない。そこにはどこか、我々が常日頃前提としがちな美術体系に対する不断の交渉と「アンラーニング=学び捨て去ること」の高度なプロセスが残響としてあった。日常生活が否応なく醸成し再生産する知覚を一時的に遮断することで、この世界における平衡感覚を意図的に奪い、例え束の間だとしても新たに練り直す可能性を示す手段としてのホワイトキューブの意味を、改めて意識させられた。それはまた、「他」なるものに対して開き、矛盾や動揺、感覚の変容を促す場としてのヘテロトピアへの入り口でもあった。
 細部に渡る観察と思考を積み重ね、入念に構築された作品内部におけるコンテクストの密度が求められ、称揚されるのが昨今の現代アートの支配的潮流である。それはまるで、マジシャンが一見してもよく理解できない手品を披露し、そのあとに少しずつ種明かしをしていく様に似ている。鑑賞者は作品の「裏の裏」を読み解くことを無意識に強いられ、マジシャンたちはさらにその裏をかくことを期待され、多かれ少なかれ目指してもいる。そこには暗示とメタファーの相互作用があり、「見えそうで見えない、それでも最後には見える」焦らしの技術が適用されている。そして、アートに対するそのような態度自体が、ノウアスフィア(認識の増殖が織り成す情報の複雑圏)が支配する高度資本主義社会のメルクマールであると同時に、「対象」と我々の身体的かつ直感的な繋がりを遮断する要因でもある。筆者が本展示からまず感じたのは、激流のごとく増殖を続ける情報と、平行して求められるそれらに対するリテラシーとの、いわば楽天的かつ能動的な、限りなく拒絶に近い折衝と交渉であるとも言える。
 水戸部七絵と根本祐杜の本展示参加アーティスト両者は、表現の対象に対する直線的な感覚をどちらも有している。直線的な感覚は、例えばラフな手の動きをあえて強調した両者の出品作から垣間見える。絵筆や轆轤といった、展示作品を一見したときに我々がカテゴライズしてしまいがちな「絵画」や「陶芸」あるいは「彫刻」といったジャンルを象徴する一連の道具を放棄することによって、これらの作品は絵画でも陶芸でも彫刻でもなく、絵具、キャンバス、粘土といった物質とアーティストの間のダイレクトな身体的ぶつかり合いの集積と化している。それは、例え彼らの経験知が(作品同様に)何重にもレイヤー化され、美術作品としての雛形に一旦は落とし込まれたものだとしても、その奥底に感情的かつ肉感的な、創作の初期衝動と歓喜を感じさせる大きな要因の一つである。
 しかし、展示全体から感じる両者の「手」の軌跡とそれに伴う感情の動きは、本展示の一要素に過ぎない。本展示は、抑制されたジオメトリックな動きが想起させる理性や論理といった対象との関係の作法を一方で対極に置きながら、他方でキッチュ、シニカル、あるいは挑発的とも捉えられる妙な毒味を想起させもする。例えば米『TIME』誌の表紙を「模写」した水戸部による連作は、ケネディ、オバマ、トランプなど歴代のアメリカ合衆国大統領や英国王室の面々、マドンナやアーノルド・シュワルツネッガーといったセレブリティを、実際に使用されたパンチ力ある見出し語とともに大胆にデフォルメする。理不尽なまでに極厚に塗り重ねられた油絵の具の圧倒的な質感と、『TIME』誌の表紙の特徴である鮮烈な赤色の多用に加え、顔の特徴が無慈悲に掻き回されたセレブリティ(主に白人で金髪)たちの顔からは、どこか酷い殴打を浴びたあとの怪我人のような趣すら漂う。さらに水戸部は、現在進行中のロシアによるウクライナ侵略を表紙にした『TIME』誌も連作に含めている。筆者が壁一面の水戸部による連作を鑑賞しながらアンディ・ウォーホルによる交通事故シーンの連続写真を大胆に取り入れた作品『Orange Car Crash』(1963)を思い出したのは、「コピー=複製」というポップアート的なアプローチや赤々とした色彩といった両作の共通項だけが理由ではない。そこには、暴力、悲劇、モラルといった、感情的規範が容易に規定されがち(「交通事故は悲劇であり、被害者を作品で扱うべきではない」)な諸要素に対する、ある種の異化作用を生み出す姿勢が感じられる。 また、水戸部が2019年に『I am a yellow』という展示を開催し、ステイトメントで自ら触れているように、「人種」は彼女の作品制作の大きなテーマの一つであり、それは「顔」の表象を前景化した本展示出品作からも感じられる。黒人男性であるジョージ・フロイドが警察によって殺害されたことをきっかけに全米に広がった反黒人差別運動「Black Lives Matter」に並び、新型コロナウイルスの感染拡大によって世界的に広がった反アジア人差別は記憶に新しく、世界各国のアジア系の人々への暴力を今も醸成している。歴史を遡れば、19世紀に西洋で巻き起こった「黄禍論」を持ち出すまでもなく、様々な言説やメディア表象を基点に、日本を含むアジアにルーツを持つ人々は、西洋において時に象徴的かつ直接的な暴力にさらされてきた。この点についてはエドワード・サイードやフランツ・ファノンといったポストコロニアリズムの論者を引き合いに出しながら論じたいところだが、その紙幅はないため、このテーマについては筆を改める必要がある。しかし、筆者が冒頭で強調した本展示が纏う無国籍感は、良くも悪くもガラパゴス化が甚だしい日本国内の美術文脈では認知されにくい退っ引きならない国際情勢や、ある種のポリティカル・アートが醸し出すアイロニーを水戸部の作品が引き受けていると感じたことにもよる、ということは述べておきたい。
 高度情報化社会と複製芸術時代を逆手に取った水戸部のアプローチとは異なり、根本の作品群からはどこか「古代」の薫りを感じる。禍々しい原色が特徴的な水戸部の作品に対し、根本の多層的かつ領域横断的なラインナップは一転してアースカラーに彩られ、展示会場の磁場に強力なコントラストを生み出す。いの一番に視線を奪う、大地からそのまま仁王立ちで起き上がったような巨人の立体作品はその最たるものだが、「鉢植え」として使用された一連の壺作品やそれらに移植された植物たち、さらには粘土をフレームとして使用したドローイング作品に至るまで、本展示における根本の作品には「大地」との変幻自在な対話が通底している。立体作品を多く散りばめ、さらには人型の作品や顔の描かれた作品を中心に据えることで、本展示はまるで根本の作品が水戸部の作品を鑑賞しているかのようにも感じられる。また、そのような展示内における物語性は、宇多田ヒカルが表紙を飾った『TIME』誌をモチーフにした根本による新作によって、象徴的に補強され、両者を接着させてもいる。水戸部が根本に呼び掛けたことから始まったという『AUN』と名付けられた本プロジェクトに確かに呼応するように、そこには単なる二人展という形式以上の両者による相互作用が存在していると言えるだろう。それはまた、様々な面において、同時代のアーティストでありながら遥かに隔たった時代性をそれぞれの作家性に纏わせた両者による、彼岸の対話でもある。
 「古代」をどことなく感じさせる根本の作品は、先述したアースカラーをふんだんに用いた色彩感覚に加え、エジプトの古代壁画を想起させるような独特の顔の筆致や、土偶のような立体作品の出で立ちによる歪な線形、そして荒々しい起伏によって特徴づけられる。さらに、鉢植えというある種の生活用具を模した作品を随所に配置することで、「美術」という概念が生活空間から切り離された鑑賞体験としていまだ確立されていなかった時代を必然的に思い出させる。「生活用具」を再解釈した美術作品は数多く存在するが、作品から視線を浴びるという点では、例えば岡本太郎による『座ることを拒否する椅子』と共通する要素が見受けられる。また、大地から立ち上がりそびえ立つ巨人からは、太郎の最も有名な作品である『太陽の塔』にも似た、大地と人間との関係を直角的かつ威圧的に表現する姿勢を感じた。縄文時代に魅せられ、日本国内の土着文化や世界各国のプリミティヴ・アートに傾倒していた太郎の作品群の残り香を根本の作品から感じたのは、決して筆者の独りよがりとは言い切れないはずだ。
 水戸部と根本による本展示は、いくつかの共通項と対比を伴いつつ、両者の無国籍感あふれる横断的な作品群と、展示内部に組み上げられた視線の交換によって、我々を国境や時代性をまたぐ想像空間に誘い込む。それは確かに現在進行系のクリエイションでありながらも、「現代アート」とくくられる同時代性の軛を突き抜け、物質性と時間性の両面において、凄まじい遠近感を筆者に突きつけた。それはある意味、安易な言語化が困難な体験であることにより、鑑賞者を不安に陥らせる。しかし、本展示を異種混淆的な動揺の場としてのヘテロトピアとして捉えることで、そこにただ存在する彼らの作品に直に向き合い、自己の揺らぎをそれ自体として味わうことができる。そのとき、無意識的に受け入れていた「これ」と「あれ」をつなぐ言葉と物の関係の一部が崩れ、再編成されていく動きの萌芽を感じることができるはずだ。

太田光海(映像作家・文化人類学者)

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根本祐杜、水戸部七絵「AUN-L字の金髪と発掘された人-」
(TOKYO INTERNATIONAL GALLERY、東京、2022年)に寄せて

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